25歳のとき、お客様に掴みかかりそうになったことがあります。
手は出していません。ただ、椅子から立ち上がって、体が前に出ていました。止めてくれた人がいなければ、どうなっていたか分かりません。
原因は、仕様の「言った言わない」でした。

お客様に掴みかかるって……そこまでいくことあるの?

あるよ。しかも、正しいことを言っているつもりのときほど危ない。今日はその話をしようか。
「そんなことは言っていない」と言われた瞬間
打ち合わせの場でした。開発の終盤、画面の挙動についてお客様から指摘が入りました。こういう動きになるはずだ、と。
私の記憶では、その動きは前の打ち合わせで別の形に決まっていました。決めたのはお客様自身です。だから私はそう言いました。前回こう決まりましたよね、と。
返ってきたのは、こうです。
「そんなことは言っていない」
頭の中が白くなりました。嘘をつかれた、と思いました。こちらのスケジュールを、こちらの残業を、この人は何だと思っているのか。そういう言葉が、順番を待たずに一度に出てきそうになりました。
気がついたら立ち上がっていました。テーブル越しに、体が前に出ていました。

上長は、説教をしなかった
同席していた上長が、私の腕を押さえました。そして、たった一言だけ言いました。
「まず落ち着け」
それだけです。お客様の前で私を叱ることはしませんでした。打ち合わせが終わったあとも、説教はありませんでした。社会人としてどうなんだとか、立場を考えろとか、そういう話は一切ありません。
当時は、なぜ何も言われないのか分かりませんでした。怒られたほうが楽だったとも思います。
いま、30年たって分かります。あの場面で私に必要だったのは、正しさの確認ではなく、頭を冷やす時間だけでした。説教を足せば、私は自分の正しさをもっと固めていたはずです。
それに、あの上長はお客様の前で私を叱らなかった。これも意味があったと思っています。もしあの場で「お前は何をしているんだ」と言われていたら、私は自分の担当者としての立場を、お客様の目の前で失っていました。翌日から同じ人と仕様の話をするのに、それはかなり効きます。
怒っている部下をその場で叱ると、二重に壊れます。部下の頭は冷えないまま、立場だけが下がる。止めるだけ止めて、あとは何も言わない。あれは面倒を避けたのではなく、判断だったのだと今は思います。

その場で怒られなかったの、優しいのかな。それとも見放されてたのかな。

あとから分かったよ。あれは、私を客先から引き剥がすための一言だったんだ。
結局、こちらが折れた
その後どうなったか。
会社が折れました。お客様の言う仕様を、追加費用なしで作りました。無償です。
判断としては、それが正しかったと今も思います。証拠がなかったからです。前回の打ち合わせで何が決まったのか、それを示すものが、こちらにも向こうにもありませんでした。あるのは二人の記憶だけ。記憶と記憶がぶつかったとき、勝つのは立場の強い側です。
そして立場の強さは、こちらが正しいかどうかとは関係がありません。
私が立ち上がったことは、この結末に何も影響しませんでした。1ミリも動かせていません。
怒っても、何も守れなかった
あのとき私が守りたかったものは、はっきりしています。
自分の残業ではありません。仕様どおりに作ったメンバーの仕事です。決まったことに沿って手を動かした人たちの数週間が、なかったことにされるのが許せなかった。
その気持ち自体は、間違っていなかったと思います。
ただ、怒ることでは何ひとつ守れませんでした。仕様は追加され、無償になり、メンバーはもう一度作り直しました。私が得たものは、掴みかかりそうになった男という評価だけです。
怒りは、守るものがある人にしか湧きません。だから怒った自分を責める必要はない。けれど、守る手段としての怒りは、性能がゼロです。
もっと言えば、逆に働きます。あの打ち合わせのあと、私はその案件で仕様の話をする担当から少し外されました。誰かに罰として決められたわけではありません。ただ、感情的になる人を客先の交渉の前に置かないというのは、まっとうな判断です。
結果として、メンバーの仕事を守れる位置から、私は自分で降りていました。守りたくて怒って、守れる場所を失った。あの日いちばん高くついたのは、無償の仕様追加ではなく、そこだったと思います。

「言った言わない」を起こさないための実務
ここが、この記事でいちばん書きたいところです。あの日の私に足りなかったのは我慢ではなく、記録でした。
その日のうちに、決まったことだけを書いて送る
議事録という言葉を重く考えなくて大丈夫です。発言を全部書き起こす必要はありません。決まったことと決まらなかったことだけを箇条書きにして、その日のうちにメールで送ります。
大事なのは速さです。翌日以降になると、お互いの記憶がもう動き始めています。
「相違があればご返信ください」で締める
送るときに、この一文を最後に付けます。
内容に相違があれば、ご返信ください。
返信がないことが、合意の証跡になります。相手に「承認してください」と迫るより角が立たず、しかも後から効きます。私はこの一文を覚えてから、同じ揉め方をしていません。
仕様変更は、金額と日程に翻訳してから返す
「それは前回と違います」と事実で返すと、記憶の言い争いになります。そうではなく、影響で返します。
その形にする場合、追加で何日かかり、いくらかかり、どこが後ろにずれるか。これを数字で出す。すると話が、どちらの記憶が正しいかではなく、やるかやらないかに移ります。私が25歳のときにできなかったのは、まさにこれです。
金額を出すことに遠慮はいりません。無償で飲むかどうかは、こちらが決める話ではなく、会社が判断する話です。数字にして初めて、上に相談できる形になります。
その場で答えを出さない権利を使う
持ち帰って確認します、は逃げではありません。感情が動いている場で結論を出すと、たいてい後悔します。あの日の私に「まず落ち着け」が必要だったのと同じ理由です。

腹が立った日に、思い出してほしいこと
この記事を、客先で腹が立った帰り道に読んでいる人がいるかもしれません。あるいは、カッとなってしまった自分に落ち込んでいる人が。
あなたが怒ったのは、守りたいものがあったからです。どうでもいい仕事なら、腹は立ちません。
ただ、守る方法は怒ることではありませんでした。守るのは記録です。その日のうちに送る数行のメールが、半年後のあなたとメンバーを守ります。地味で、面倒で、効きます。
私は25歳のとき、それを知らずに立ち上がりました。止めてくれた上長がいたから、いまこうして書いています。

怒っちゃった自分がダメなのかと思ってた。そうじゃないんだね。

ダメじゃないよ。次は、怒る前にメールを1本書く。それだけで変わるんだ。
よくある疑問
議事録を送っても読まれないのですが、意味がありますか
あります。読まれたかどうかではなく、送った事実が効きます。「相違があればご返信ください」を付けて送っておけば、後から違う話が出たときに、いつの時点で何が共有されていたかを示せます。読ませることが目的ではありません。
お客様に強く言えず、いつも飲み込んでしまいます
強く言う必要はありません。事実で戦わず、影響で返してください。「その形にすると追加で3日、リリースが1週間後ろになります」と数字で出すだけで、判断は相手の側に移ります。感情を込めなくても通ります。
その場でカッとなってしまう癖は直りますか
性格は変わりませんが、手順で回避できます。私の場合は「その場で結論を出さない」を自分のルールにしました。持ち帰って確認しますと言えるようにしておくと、頭が熱いまま答えを出す場面そのものが減ります。


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